第1-8-1話:“どうせ無理”という壁

大きなプロジェクトが一段落し、株式会社テックフォレストには、久しぶりに穏やかな時間が流れていた。
高橋健太は、日々の保守タスクをこなしながらも、頭の中では全く別のことを考えていた。
(あの機能、もっとこうすれば、絶対にユーザーは喜ぶはずだ…)
それは、彼が担当しているシステムの、全く新しい使い方に関する、革新的なアイデアだった。
彼は、プライベートなメモファイルに、そのアイデアの概要や画面イメージを、夢中になって書きためていた。
しかし、そのアイデアを正式に提案するとなると、話は別だ。
高橋の脳裏に、いつもの光景が浮かぶ。
忙しいマネージャーの佐藤さんの時間をなんとか取ってもらい、勇気を出してプレゼンする。
佐藤さんはきっと「いいね」と言ってくれるだろう。
だが、その後だ。彼女がさらに上の事業部長に話を通し、予算会議にかけられ、関連部署からのフィードバックを受け…。そうしているうちに、あれほど輝いて見えたアイデアは、いつの間にか「保留」という名の引き出しの奥で、忘れ去られていく。
以前、同僚が提案した素晴らしい改善案も、そうやって立ち消えになったのを、高橋は見ていた。
(…どうせ無理だ)
その一言が、彼の情熱に冷たい水を浴びせる。
高橋は、書きかけのメモファイルを、誰にも見られないようにそっと閉じた。
彼の素晴らしいアイデアは、こうして、また一つ、埋もれていこうとしていた。
第1-8-2話:匿名の“アイデア・ガーデン”

その週の月曜日の朝。
会社の全メンバーに、『ワンチーム』から新しいお知らせが届いた。
『本日より、新しい社内プラットフォーム「アイデア・ガーデン」をリリースします』
説明を読むと、それは、誰でも自由にアイデアを投稿できる、新しい提案システムらしかった。
だが、一点だけ、他の会社にはない特徴があった。
「アイデア・ガーデンは、全ての投稿が“匿名”で行われます。小さな改善案から、世界を変えるビジネスの種まで、あなたの『想いの種』を、気軽に植えてみてください」
高橋は、その「匿名」という言葉に、心が動いた。
正式な提案のように、上司の顔色をうかがう必要はない。否定されても、自分が傷つくことはない。
それなら…。
彼は、週末に書きためていた自分のアイデアを、少しだけ体裁を整えて、「アイデア・ガーデン」に投稿してみた。
ボタンを押すと、自分のアイデアが、名もなき「一本の若木」として、プラットフォーム上に植えられた。
ホッとすると同時に、他にもたくさんの若木が植えられているのが見える。
皆、同じように、声に出せなかった想いを、ここに託しているのかもしれない。
高橋は、それだけで、少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。
第1-8-3話:芽吹いた“誰か”の想い

数日後。
マネージャーである佐藤理恵の元に、『ワンチーム』から通知が届いた。
『インサイト:「アイデア・ガーデン」に、事業性の高い新規ビジネス案が投稿されました。
初期分析の結果、高い投資収益率が見込まれます。
詳細な事業計画の草案を添付しますので、ご確認ください』
佐藤は、添付されていた事業計画書の完成度の高さに目を見張った。
市場分析、ターゲット層、収益予測、開発スケジュール案まで、完璧にまとめられている。
「…すごい。いったい誰が、こんなアイデアを」
彼女は、すぐにチームメンバー全員を会議室に集めた。
「皆さん、聞いてください。
『アイデア・ガーデン』に、匿名の素晴らしい提案が投稿されました。
会社としても、正式なプロジェクトとして立ち上げを検討したいと思っています」
佐藤が企画の概要を説明すると、メンバーたちは「それは面白い!」と色めき立つ。
「つきましては、この素晴らしいアイデアを考えてくれた方に、ぜひ、このプロジェクトのリーダーをお願いしたい。…名乗り出ていただけませんか?」
会議室が、静まり返る。
全ての視線が、誰が手を挙げるのかと、固唾をのんで見守っている。
高橋は、心臓が早鐘のように鳴るのを感じていた。
数秒間の逡巡の後、彼は、震える手をおずおずと、しかし、まっすぐに挙げた。
その瞬間、佐藤の顔が、満開の花が咲くように、ぱあっと明るくなった。
「…!やっぱり、あなただったのね、高橋くん!素晴らしいアイデアよ!」
メンバーからの温かい拍手に包まれながら、高橋は、少しだけ頬を赤らめていた。
もう、彼の心に「どうせ無理」という壁はない。
システムが作り出した、誰かの顔色をうかがう必要のない、たった一つの優しさ。
それが、埋もれていた一人の才能を、見事に開花させた瞬間だった。
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