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2-3:夕暮れの“ささやき”


第2-2-1話:急いでいる、お客様

夕暮れ時。

 

店じまいを始めた文の耳に、通りの向こうからの大きなため息が聞こえてきた。

ほしふる商店街で一番の頑固者、『八百源』の源さんだ。

 

「文ちゃん、今日もさっぱりだ。

このままじゃ、このトマトもキュウリも、みんなダメになっちまう」

 

源さんは、色鮮やかな野菜が山積みになった軽トラックの荷台を眺めながら、がっくりと肩を落としている。

駅前の大きなスーパーができてから、仕事帰りの客はみんな、そっちへ流れてしまうのだ。

 

「源さん、この間のアプリ、使ってみたらどうかな?

写真を撮るだけだから、簡単だよ」

 

文が「@SHOP」を勧めると、源さんは顔をしかめた。

 

「俺はそういうハイカラなもんは好かん!

野菜は、見て、触って、買うもんだ」

 

取り付く島もない。

文は苦笑いしながら自分の店に戻った。

(源さんの野菜、本当に美味しいのになぁ…。このままじゃ、本当にもったいない)

 

文は、店のカウンターから見える『八百源』の店先をじっと見つめた。

夕日を浴びて、真っ赤なトマトがきらきらと輝いている。それは、まるで宝石のようだった。

 

その美しさに、文は、いてもたってもいられなくなった。

 


第2-3-2話:おせっかいな一枚

文は自分のスマホを手に、源さんの店へと小走りで向かった。

 

「源さん、お願い! 宣伝になるかもしれないから、一枚だけ、そのトマトの写真撮らせてくれないかな?

ダメ元でさ!」

 

「ん? なんだ急に…。

ったく、好きにしろよ」

 

源さんはぶっきらぼうにそう言いながらも、トマトが一番よく見えるように、カゴの向きを少しだけ直してくれた。

文はその不器用な優しさが嬉しくて、一番美味しそうに見える角度から、夕日に輝くトマトの写真を一枚だけ撮影した。

 

自分の店に戻ると、文はすぐに「@SHOP」に話しかけた。ほとんど、日記をつけるような感覚だった。

 

「見て、これが源さんのお店のトマト。

すごく美味しそうなのに、お客さんが来なくて余っちゃうんだって。

頑固だけど、本当は優しい人なのよ」

 

そう呟きながら、先ほど撮影した写真をアプリに送信した。

 

「そうなんですね。

このトマトの物語、探している人に届けてみましょうか?」

と、@SHOPが穏やかに応えた。

 

翌日の夕方。

文がそろそろ店を閉めようかと思っていた時、スマホがポーンと軽やかに鳴った。

画面には「@SHOPからのお知らせ」という通知。

 

『お仕事お疲れ様です。

今夜のおかずに、ほしふる商店街『八百源』の、太陽をたっぷり浴びた採れたてトマトはいかがですか?』

 

通知に添えられていたのは、昨日、文自身が撮影したあのトマトの写真だった。

けれど、ただの写真ではない。

プロが撮ったかのように少しだけ色合いが調整され、湯気のCGがふわっと追加されて、まるで「美味しいパスタになるのを待っているトマト」のように見えた。

 

「え? 私、八百屋じゃないのに…」

文は驚いた。[

これは、店主としてではなく、一人の「ユーザー」として自分に届いた通知なのだと、すぐに気づいた。

文が登録した自宅の場所と、帰宅時間に合わせて、@SHOPが帰り道にあるお店の情報を「ささやいて」くれたのだ。


第2-3-3話:夕暮れの行列

文がスマホの通知に驚いていた、まさにその直後だった。

 

駅の方向から歩いてきた会社員や学生たちが、次々とスマホを見ながら『八百源』の店先に吸い込まれていく。

 

「すみません、このトマトください!」

「通知見て来ました! 美味しそう!」

「私も! まだありますか?」

 

あっという間に、いつもは閑散としているはずの店の前には、小さな人だかりができていた。

 

ポカンとしてその光景を眺めていた源さんが、慌てて野菜を袋に詰め始める。

その顔は、困惑しながらも、どこか嬉しそうだった。

 

「文ちゃん! い、一体、何をしたんだ!?

なんで、お前さんが撮った写真が、みんなのスマホに…!」

 

しばらくして、ほとんどの野菜を売り切った源さんが、興奮した様子で文の店に駆け込んできた。

目を白黒させている。

 

文は、自分のスマホの画面を源さんに見せた。

 

「私が何かしたわけじゃないの。

この子が、源さんのトマトの美味しさを、伝えてくれただけだよ」

 

源さんは、スマホの画面に映る、自分では絶対に撮れないほど美味しそうなトマトの写真を、ただただ信じられないという顔で見つめていた。

 

そして、照れくさそうに頭をかきながら、ぼそりと言った。

 

「…文ちゃん。その、なんとかっていうの、俺にも教えてくれや」

 

その言葉は、頑固な八百屋の店主が、新しい時代に小さな一歩を踏み出した、確かな合図だった。