第1-11-1話:“交渉”という名の戦場

月曜日の朝。
マネージャーの佐藤理恵の元に、一本の電話が入った。
明日、重要なクライアントとの契約更新を控えていた、営業部のエース担当者が、急な体調不良で入院したという。
「そんな…」
佐藤は頭を抱えた。
その契約は、会社の業績を左右するほど重要なものだ。
そして、交渉相手である、クライアント企業の乾(いぬい)部長は、業界でも「鉄壁」と評判の、非常に手強い人物だった。
延期はできない。
しかし、代役がいない。
技術的な仕様が複雑に絡むため、営業部の誰もが尻込みしていた。
「…高橋くんなら、技術的な内容は一番理解しているはず」
佐藤に残された選択肢は、一つしかなかった。
彼女は、プログラマーである高橋健太の席へ向かう。
「高橋くん、緊急事態なの。
本当に、無理を言うのは分かってる。
明日の、フューチャー・ダイナミクス社との交渉、あなたにお願いできないかしら」
突然の指名に、高橋健太は、血の気が引くのを感じた。
自分はプログラマーだ。
人と話すのは得意ではないし、ましてや、あの乾部長と価格や納期を巡って「交渉」するなど、想像しただけで、胃が縮み上がる思いだった。
しかし、会社の危機と、必死な表情の佐藤を前に、彼は「できません」とは言えなかった。
「…わ、わかりました。やってみます」
その日の午後、高橋は自分のデスクで、大量の契約書や過去の議事録を前に、完全に途方に暮れていた。
どこから手をつければいいのか、何を準備すればいいのか、全く分からない。
彼にとって、それは、プログラムのバグ修正とは全く違う、出口のない戦場のように思えた。
第1-11-2話:“勝利”へのシナリオ

深夜、一人オフィスに残り、不安とプレッシャーで押しつぶされそうになっていた高橋のPCに、『ワンチーム』から通知が届いた。
それは、彼だけに送られた、特別なサポートの提案だった。
『担当タスク「フューチャー・ダイナミクス社 契約更新交渉」について、あなたを支援するための準備ができました。
「交渉サポートパック」を表示しますか?』
高橋が、祈るような気持ちで「はい」をクリックすると、画面に詳細なレポートが表示された。
『過去5年間の全議事録、メール、契約書を分析した結果、今回の交渉のポイントは以下の通りです』
そこには、信じられないほど具体的で、論理的な「勝利へのシナリオ」が書かれていた。
【交渉相手のプロファイル】
・乾部長は、感情論よりも、データに基づいた長期的なコストパフォーマンスを重視する傾向にあります。
【最重要交渉事項(譲れない条件)】
1. 年間保守費用5%の価格改定:
・理由:過去2年間の無償アップデートによる機能追加(3項目)と、昨今の物価上昇をデータで提示してください。
2. サポート範囲の明確化(平日9時~18時):
・理由:開発チームの健全な労働環境を維持するため。
時間外対応は別途見積もりとなることを契約書に明記します。
3. 匿名化された運用データの取得許諾:
・理由:今後の障害予測の精度向上のため。
これは、クライアント側にもメリットがあることを強調してください。
【交渉カード(譲歩可能な条件)】
・相手が価格に難色を示した場合、交渉カード①「通常は有償の『高度分析レポート機能』の初年度無償提供」を提示してください。
・サポート時間の延長を求めてきた場合、交渉カード②「月5時間までの時間外サポートを保守費用内で提供」を提示してください。
それは、まるで未来を予知したかのような、完璧な戦略ガイドだった。
高橋は、その夜、夢中で「交渉サポートパック」を読み込んだ。
それは、セリフを暗記する作業ではない。
相手を知り、自分の武器を知り、勝利への道筋を理解する、知的で、心強い準備だった。
彼の心から、あれほど大きかった不安が、静かに消えていくのを感じた。
第1-11-3話:“言葉”が、未来を創る

翌日。
乾部長とのリモート会議が始まった。
高橋は、緊張しながらも、昨日までの彼とは別人だった。
心の中には、信頼できる「最高の交渉人」という相棒がいる。
会議は、まさに『ワンチーム』が予測したシナリオ通りに進んだ。
「高橋さん、ご提案の資料は拝見しました。
しかし、この保守費用5%の値上げというのは、いささか急ではありませんか?」
乾部長が、鋭い視線で切り込んできた。
高橋は、冷静に答える。
これも、シナリオ通りだ。
「ご指摘ありがとうございます、乾部長。
こちらの資料の3ページ目をご覧いただけますでしょうか。
この2年間で、私達はこれだけの機能を追加開発し、無償で提供してまいりました。
今回の価格改定は、その価値を適正に評価していただきたい、というのが私達の願いです」
彼は続けた。
「ですが、長年のお付き合いに感謝して、私達からも一つご提案があります。
本来であれば有償オプションである『高度分析レポート機能』を、来年度は無償でご提供させていただく、というのはいかがでしょうか」
乾部長は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに納得の表情に変わった。
「…なるほど。悪くない提案だ。
高橋さん、君は、前任者以上に、こちらの状況をよく理解してくれている。
素晴らしい交渉だった。
この条件で、契約しよう」
結果は、会社が期待していた以上の、最高の条件での契約更新だった。
オフィスに戻った高橋は、佐藤やチームのメンバーから、手放しの称賛を受けた。
高橋は、自分のデスクに座り、静かに息をついた。
彼は、自分が雄弁になったわけではないことを知っている。
ただ、システムがくれた「武器」と「シナリオ」を元に、自分の「言葉」で、誠実に話しただけだ。
交渉とは、戦いではない。
相手を理解し、お互いの利益が重なる場所を見つける、創造的な対話なのだ。
『ワンチーム』は、彼に、その本質を教えてくれた。
システムの優しさとは、人に代わって何かをすることではない。
人が、自分の力で、昨日までの自分を超えるための「翼」を、そっと与えてくれることなのかもしれない。
高橋は、新しい自信と共に、温かい気持ちに包まれていた。
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