第1-10-1話:“巨匠”の不在

火曜日の朝。
株式会社テックフォレストに、一本の電話が入った。
「すみません、鈴木ですが…、熱が下がらず、本日お休みをいただきます」
ベテランエンジニア、鈴木守からの珍しい欠勤の連絡だった。
チームのメンバーは皆、「お大事にしてください」と彼の体を気遣った。
彼が一人で守っている、あの古い基幹システムの保守業務。
一日くらい、何も起こらないだろう。
誰もが、そう高を括っていた。
だが、悪夢は、その日の午後にやってきた。
一社の大口クライアントから、障害報告の緊急アラートが鳴り響いたのだ。
問題の箇所は、まさに、鈴木が長年一人で守り続けてきた、あの基幹システムの心臓部だった。
彼自身が「砦」と呼ぶ、複雑で、誰にも全容を理解できない領域。
マネージャーの佐藤理恵は、顔面蒼白になりながら、チームで二番目に詳しいはずの高橋健太に声をかけた。
「高橋くん、お願い、見てくれる?」
「…はい!」
高橋は、以前の引継ぎ資料を手に、問題のコードに挑んだ。
だが、まるで迷宮だった。
資料に書かれていない、無数の「その場しのぎ」の修正や、鈴木の頭の中にしかない「暗黙のルール」が、網の目のように張り巡らされている。
手を出せば出すほど、事態は悪化していく気がした。
クライアントからの催促の電話が鳴り響く。
高橋は、冷や汗をかきながら、ただモニターの前で立ち尽くすしかなかった。
チーム全体が、機能不全に陥っていた。
たった一人の「巨匠」が不在という、それだけの理由で。
第1-10-2話:“砦”の設計図

佐藤は、万策尽きた、と天を仰いだ。
鈴木さんの携帯に電話をかけるべきか。
いや、病人で休んでいる彼に、そんなことはできない。
彼女が究極の選択に迫られていた、その時だった。
彼女のPC画面に、『ワンチーム』から緊急度の高い通知が届いた。
『インサイト:重大インシデントが発生しましたが、担当タスクの95%を過去に処理していた鈴木様が不在のため、解決が停滞しています。これは、事業継続における重大な「単一障害点」です』
続けて、こう表示された。
『対策案:鈴木様の過去10年間の全作業ログ、コード修正履歴、関連チャットログを緊急解析し、当該システムのアーキテクチャ(構造)と暗黙的なルールをまとめた「緊急技術ドキュメント」を生成します。生成には15分を要します。実行しますか?』
佐藤は、その提案に、一筋の光を見た。
「…お願いします!」
彼女が祈るような気持ちでボタンを押すと、システムは猛烈な勢いで解析を開始した。
そして15分後。
高橋の元に、一冊の電子書籍ほどのボリュームがある、詳細なドキュメントが届けられた。
それは、誰も見たことのなかった、あの「砦」の、完璧な設計図だった。
第1-10-3話:みんなの“地図”

「…わかったぞ!原因はここだ!」
『ワンチーム』が生成した「設計図」を食い入るように見ていた高橋が、叫んだ。
彼は、ドキュメントに書かれていたシステムの構造を頼りに、複雑な迷路の中から、見事にバグの根本原因を突き止めたのだ。
彼の修正によって、システムは正常に復帰。
クライアントからの感謝の連絡に、チームは安堵のため息をついた。
数日後。
すっかり元気になって出社した鈴木に、佐藤は今回の経緯を話した。
そして、『ワンチーム』が作ったドキュメントを見せた。
「鈴木さん。あなたの知識と経験は、会社の宝です。
でも、あなた一人が背負うには、あまりに重すぎる。
だから、このドキュメントを元に、あなたの知識を、チームみんなの“地図”にさせてもらえませんか」
鈴木は、ドキュメントに静かに目を通していた。
そこには、自分が忘れていたような古い修正の意図や、判断の根拠までが、正確に言語化されていた。
自分の頭の中にしかなかった、職人としての人生そのものが、そこにあった。
彼は、自分が不在の間にチームが陥った危機を想像し、そして、自分の知識がチームを救ったという事実に、静かな責任感と、誇らしさを感じていた。
「…わかった。手伝おう」
その日から、会議室では、鈴木と高橋が、楽しそうにドキュメントを修正・追記する姿が見られるようになった。
高橋は思う。
本当のチームワークとは、ただ一緒に仕事をするだけではない。
一人ひとりが持つ知識や経験を、みんなの「地図」として共有し、誰か一人がいなくても、誰もが道に迷わないようにすることなのだと。
一人の天才が守る「砦」は、もうない。
代わりに、チームには、全員で未来へ進むための、確かな「地図」が手に入った。
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