第1-7-1話:“戦場”からの電話

株式会社テックフォレスト、開発フロア。
マネージャーである佐藤理恵のチームは、緊張感に包まれていた。
主要プロジェクトが佳境を迎え、高橋健太やベテランの鈴木守をはじめ、メンバー全員が連日遅くまで作業に追われている。
オフィスの空気は、静かだが、ひりつくような熱を帯びていた。
その時、佐藤のデスクの電話が鳴った。
相手は、営業部のエースである冴木(さえき)だった。
彼の弾んだ声が、受話器から響き渡る。
「佐藤さん、やりましたよ!大手クライアントの『ゴライアス・コーポレーション』から、新機能の追加開発、大型受注です!クライアントの発表会に合わせて、納期は3ヶ月後。
やれるって、言っておきましたから!」
佐藤は、一瞬、耳を疑った。
彼女はデスクのPCで、『ワンチーム』のダッシュボードに表示されているチームのリソース状況を確認する。
稼働率は、すでに120%に達している。
この状況で、あの規模の案件を3ヶ月で?物理的に不可能だ。
「…冴木さん、申し訳ないけど、うちのチームの今の状況を見て。3ヶ月は絶対に無理よ」
「いやいや、佐藤さん、気合が足りないですよ。
こっちは戦場で、命がけで仕事取ってきてるんですから。
開発の皆さんも、もっと情熱で応えてくれないと。じゃ、そういうことで!」
一方的に、電話は切れた。
佐藤は、受話器を置いたまま、呆然と立ち尽くす。
彼女は、疲れ切った顔でモニターに向かう高橋たちの背中を見つめた。
営業部と開発部の間には、目には見えない、しかし、あまりにも深い断絶、冷たい「国境線」が存在している。
彼らにとって、私たちは、ただ利用するだけの「資源」でしかないのか。
佐藤の心に、深い無力感が広がった。
第1-7-2話:“痛み”のシミュレーション

佐藤が、上層部にこの無謀な計画をどう説明すべきか、頭を抱えていた時だった。
『ワンチーム』が、静かに、しかし素早く動き出した。
営業部の冴木が登録した受注報告をトリガーに、システムが新しいプロジェクトを仮登録。
そして、その影響を即座にシミュレーションし始めた。
数分後。
冴木、佐藤、そして二人の上司である事業部長を含む、全関係者のPCに、『ワンチーム』から一斉に通知が届いた。
『新規プロジェクト「ゴライアス社・機能追加案件」が仮登録されました。
リソース影響のシミュレーション結果を共有します』
続けて表示された内容は、衝撃的だった。
『警告:本案件を納期3ヶ月で遂行した場合、開発部は12週連続で稼働率180%を超える見込みです。
【予測される影響】
・既存プロジェクトへの不具合発生率:40%上昇
・開発部の従業員ストレス指標:65%上昇
・開発部の離職リスク:25%上昇
・本案件の納期内での成功確率:12%
【推奨代替案】
A案:納期を6ヶ月に延長することで、現行リソースでの成功確率は92%に向上します。
B案:シニアエンジニアを3名増員することで、納期3ヶ月での成功確率は85%に向上します。
関係者による、早急な対策会議の開催を推奨します』
それは、感情的な反論ではない。
ただ、客観的なデータを元にした、会社の未来に関する、冷徹なまでのシミュレーション結果だった。
第1-7-3話:国境線が“消える”時

緊急対策会議が招集された。
会議室に入ってきた営業部の冴木の顔に、以前のような自信はなかった。
事業部長が、メインスクリーンに映し出された『ワンチーム』のシミュレーション結果を、厳しい顔で見つめている。
「…冴木くん。
君の言う“情熱”が、会社にこれだけのリスクをもたらす可能性について、何か意見はあるかね?」
これはもう、佐藤の「開発部は大変だ」という主観的な訴えではない。
会社全体の利益に関わる、経営判断の問題だった。
冴木は、初めて、自分の受注が引き起こす「痛み」を具体的に理解した。
開発部が疲弊するだけでなく、既存の他のクライアントにまで迷惑をかける可能性がある。
それは、営業部の成績にも、いずれ跳ね返ってくることだ。
「…申し訳ありません。
開発の皆さんの状況を、これほどとは…」
冴木は、深く頭を下げた。
データという「共通言語」を前に、彼らは初めて、同じテーブルについて建設的な対話を始めた。
最終的に、クライアントに事情を説明し、6ヶ月での段階的な納品という、現実的なプランで再交渉することが決まった。
会議の後、冴木が開発フロアにやってきた。
彼は、高橋や鈴木のデスクに歩み寄り、もう一度、頭を下げた。
「この度は、本当に申し訳なかった。
これからは、必ずリソース状況を確認してから、お客様と話をするようにします」
その誠実な言葉に、高橋たちも静かに頷いた。
彼らの間にあった、見えない「国境線」が、少しだけ、溶けていくのが分かった。
システムがもたらしたのは、単なるデータではない。
部署や立場を超えて、互いを思いやり、一つのチームとして未来を考えるための、「優しさ」の土台だった。
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