第2-1-1話:届かなかった声

土曜日の昼下がり。
『ほしふる商店街』のアーケードに差し込む光は、床のタイルのところどころが剥げた跡を頼りなげに照らしている。
観光地の喧騒から一本脇道に入っただけのこの場所は、まるで時間の流れが違うみたいに、ひっそりと静かだった。
「星野文具店」の店主、星野文(ほしの ふみ)は、ガラスのカウンターに肘をつき、大きなため息をひとつ吐いた。
彼女の背後には、祖父の代から受け継いだインクの匂いを染み込ませた棚が並び、色とりどりの便箋や、軸の美しい万年筆がひっそりと出番を待っている。
人付き合いは好きなのに、この静けさの中にはその相手もいない。
店の窓から外を眺めると、若い夫婦らしき観光客が、商店街の入口でガイドブックを広げていた。
女性の方が「こっち、何かあるのかな?」と興味深そうに商店街を覗き込む。
文の心臓が、かすかにトクン、と期待に跳ねる。
「…でも、何のお店か分からないもんね」
男性の言葉が、ガラス越しでも聞こえてきそうだった。
二人は結局、賑やかな駅前の方向へと歩き去っていく。
ああ、まただ。
美味しいお豆腐屋さんもある。
腕のいいクリーニング屋さんだって。
そして、うちの店にだって、ショッピングセンターにはない、特別な一本がきっと見つかるのに。
その声は、誰にも届かない。
その日の夜。
閉店後の店で、古いパソコンに向かって帳簿をつけていると、ポーン、と軽い音がしてメールの受信を知らせた。
差出人は、なし。
件名にはこうあった。
『ほしふる商店街の皆様へ。未来への小さな一歩のご提案』
怪しい。
文はすぐに削除しようとした。
けれど、なぜか指が止まる。
「基本無料」「いつでもやめられます」という言葉と、「あなたの『お店の物語』を、探している人に届けませんか?」という一文が、心の柔らかい場所をちくりと刺した。
(このままじゃ、何も変わらない…)
文は、意を決してメール内のリンクをクリックし、言われるがままに、自分のスマートフォンに「@SHOP」というアプリをインストールした。
アイコンは、@マークに小さな屋根がついたような、可愛らしいデザインだった。
第2-1-2話:あなたの声を聞かせて

アプリを開くと、画面は真っ白。
しばらくして、ふわりと文字が浮かび上がった。
『はじめまして、星野さん。これから、あなたのお店のお手伝いをします』
そして、スマホのスピーカーから、女性とも男性ともつかない、穏やかで落ち着いた合成音声が聞こえてきた。
「こんにちは、星野さん。お店のことを少し、教えていただけますか?」
「えっ、声!?」
思わず、文は素っ頓狂な声をあげてスマホを落としそうになった。
「…は、はい」
誰もいない店内で、スマホに向かって返事をするのが、なんだかとても恥ずかしい。
「ありがとうございます。では、最初の質問です。
あなたのお店の、一番の『自慢』は何ですか?
思いつくままに、話してみてください」
「じ、自慢…?」
文は戸惑いながらも、独り言のように話し始めた。
「そうねぇ…祖父の代から続く、この店の雰囲気、かしら。
手紙を書きたくなるような、たくさんの種類の便箋とか、インクとか…。お客様にぴったりの一本を、時間をかけて一緒に探すこと、ですね…」
「素敵ですね。『時間をかけて一緒に探す、手紙を書きたくなるお店』。覚えました」
アプリが自分の言葉を肯定してくれたことに、文は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
「では次に、お店の商品を教えてください。スマートフォンのカメラで、お店の棚をゆっくりと動画で映していただけますか?」
言われるがまま、文はカメラを起動し、店の中をゆっくりと歩き始めた。
万年筆が眠るガラスのショーケース、壁一面に広がる色とりどりの便箋棚、インク瓶が宝石のように並ぶコーナー…。
ただ、いつも見ているだけの光景を、スマホのレンズ越しに巡っていく。
撮影を終えると、アプリの画面で小さな円がくるくると回り始めた。
やがて、ポン、と音がして、万年筆の棚の画像が表示された。
「ありがとうございます。分析が終わりました。
確認しますね。
こちらは、『万年筆・高級筆記具』の棚でよろしいですか?」
「はい、そうです」
次に、ファンシーなノートやシールが並ぶ棚の画像に切り替わった。
「では、こちらは…『キャラクター文具』の棚ですね?」
「ううん、ちょっと違うかな。そこは『子供向けの、わくわくする文房具』の棚、って感じ」
「承知しました。『子供向けの、わくわくする文房具』の棚ですね。修正しました」
音声でのやり取りは、思ったよりもずっと簡単だった。
まるで、お店のことをよく知る友人と話しているような気分だった。
「ありがとうございました。準備はこれだけです。あとは、私たちにおまかせください」
第2-1-3話:届き始めた物語

翌日の日曜日。
文はあまり期待もせず、いつものように店のシャッターを開けた。
どうせ今日も、常連の田中さんが新聞を買いに来るくらいだろう。
だが、昼過ぎにチリンとドアベルが鳴った。
入ってきたのは、昨日店の前を通り過ぎていった、あの若い夫婦だった。
「すみません、スマホで見て…。この棚、すごく素敵だなって」
女性が、少しはにかみながらスマートフォンの画面を文に見せた。
そこには、『ほしふる商店街 おさんぽマップ』という地図が広がり、「星野文具店」の場所にピンが立っている。
ピンをタップすると、文が昨日話した「時間をかけて一緒に探す、手紙を書きたくなるお店」という言葉と共に、動画から切り取られた「棚の写真」がいくつも並んでいた。
『万年筆・高級筆記具』『和紙便箋の棚』『子供向けの、わくわくする文房具』…。
「ECサイトみたいに商品が一個一個並んでるんじゃなくて、お店の棚がそのまま見られるのが、なんだか面白くて。宝探しみたいで、来てみたんです」
「え…?」
文は目を丸くした。
夫婦は楽しそうに店内を見て回り、文が自慢に思っていた便箋と、初めての人でも使いやすい万年筆を嬉しそうに買っていった。
その日は、その後も何組か、スマートフォンを片手にした一見客が店を訪れた。
閉店後、文がスマホの「@SHOP」を開くと、穏やかな声がした。
「星野さん、お疲れ様です。
今日、あなたのお店に3組の新しいお客様が興味を持ちました。
特に『和紙便箋の棚』の画像は、たくさん見られていましたよ。
明日も、良い一日になりますように」
自分の声で語ったお店の自慢が、ただ撮っただけの店内の風景が、それを求めている誰かに確かに届き始めた。
文は、まだ人通りの少ない商店街の夜景を眺める。
昨日までと同じ景色のはずなのに、なんだか少しだけ、キラキラして見えていた。
謎のアプリとの、不思議な対話が、今、静かに始まった。
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