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1-5:沈黙の“壁”


第1-5-1話:巨匠の“沈黙”

株式会社テックフォレストには、一つの大きなリスクがあった。

チームの基幹システムの一部に、長年、ベテランエンジニアの鈴木守だけが担当してきた、いわば「ブラックボックス」化した領域があることだ。

彼に万一のことがあれば、業務が完全に停止してしまう。

マネージャーの佐藤理恵は、そのリスクを解消するため、プログラマーの高橋健太を、鈴木の後継者として育てることを決めた。

 

佐藤のオフィスの小さな会議室。

三人の間には、重たい空気が流れていた。

 

「…というわけで、鈴木さん。

高橋くんに、少しずつでいいから、あのシステムの保守業務、引き継いでもらえませんか。

あなたの知識は、会社の財産なので」

 

鈴木は、腕を組んだまま、不機嫌そうに「…まあ、時間が空いたらな」とだけ答えた。

(俺の技術は、マニュアルに書いて覚えるような、安っぽいもんじゃねえ。

そもそも、なぜ俺が、苦労して貯め込んだノウハウを、ただでくれてやらなきゃならんのだ…)

 

一方、高橋も、伝説的なエンジニアである鈴木を前に、完全に萎縮していた。

(どうやって引き継げって言うんだよ…。何から聞けばいいのか、全然わからない…)

 

佐藤は、二人の間にそびえ立つ、分厚く冷たい「職人の壁」を感じていた。

指示を出したはいいが、これでは前途多難だ。

頭の痛い問題が、また一つ増えてしまった。

 

案の定、引継ぎは全く進まなかった。

高橋は、何から手をつけていいかわからず、かといって不機嫌そうな鈴木に声をかけることもできず、ただ気まずそうに自分の席に座っている。

鈴木は、そんな高橋を一瞥するだけで、自分の仕事に没頭し、教えようとする素振りも見せない。

二人のデスクの間には、見えない「壁」が、日増しに高くなっていくようだった。

 


第1-5-2話:賢い“弟子入り”

高橋と鈴木の間に割り当てられた「知識継承」のタスクが、数日間まったく進捗していないことを、『ワンチーム』が見逃すはずはなかった。

 

ある日の午後、マネージャーである佐藤のPCに、『ワンチーム』からプライベートな通知が届いた。

 

『インサイト:「知識継承」タスクが進捗停止しています。

原因として、継承すべき知識が体系化されておらず、双方にとって負担が大きいことが考えられます』

 

続けて、こう表示された。

 

『提案:鈴木様の過去5年間の作業ログを分析し、「知識継承カリキュラム案」をドラフトとして作成しました。

ご確認の上、佐藤様から鈴木様へ「議論の叩き台」としてご提案いただくことで、鈴木様の心理的負担を軽減できる可能性があります』

 

佐藤は、添付されていたカリキュラム案を見て、その的確さに目を見張った。

週ごとのテーマから、具体的なトピックまで、完璧に体系化されている。

 

彼女はすぐに鈴木を会議室に呼んだ。

 

「鈴木さん、先日の件、丸投げしてしまってごめんなさい。

教える側も大変ですよね。

それで、叩き台として、こんなカリキュラムを考えてみたんですが、どうでしょうか。

これに沿って、少しずつお話を聞かせていただけると、すごく助かります」

 

鈴木は、ぶっきらぼうな顔で資料に目を通したが、その表情が少しずつ和らいでいく。

これなら、自分が一から考える必要はない。

自分の知識を、ただ話せばいいだけだ。

何より、マネージャーが自分のためにここまで準備してくれた、という事実が、彼の職人としてのプライドを心地よくくすぐった。

 

「…ふん。お前がそこまで言うなら、やってやるか」

 

鈴木は、少しだけ口角を上げて、そう答えた。

 


第1-5-3話:受け継がれる“哲学”

引継ぎの時間は、意外な形で始まった。

高橋と鈴木が会議室で向き合うと、テーブルの上のモニターに『ワンチーム』が起動した。

 

「本日のテーマは『初期環境構築』です。

鈴木さん、当時の手順について、思い出せる範囲でお話しください。議事録は私が作成します」

 

鈴木は、少し戸惑いながらも、カリキュラムに沿って、昔話を始めるようにポツリポツリと語りだした。

すると、彼が話した内容が、リアルタイムで美しいドキュメントに変換されていく。

コマンドやコードは正確に整形され、専門用語には自動で注釈がつく。

自分の頭の中にしかなかった、混沌とした知識が、目の前で美しい「資産」に変わっていく。

その光景に、鈴木はいつしか夢中になっていた。

 

「この時の設定値は、勘だったな。

長年の経験が、こうしろって言ってたんだ」

 

彼がそう言うと、高橋のPCに『ワンチーム』からそっと通知が来た。

 

『質問のヒント:その「勘」の根拠を、もう少し具体的に聞いてみましょう』。

 

「鈴木さん、その『勘』というのは、例えばどういう状況から判断されたんですか?」

 

高橋の問いに、鈴木は「いい質問だ」とニヤリと笑い、自らの仕事の「哲学」を、熱っぽく語り始めた。

 

数週間後。

引継ぎは完了し、そこには誰が見てもわかる、完璧な業務マニュアルが残った。

 

最終日、木村は高橋の肩をポンと叩いた。

「お前、なかなか聞き上手だな。

お陰で、俺の頭の中もすっかり整理されたよ。ありがとな」

 

「いえ、鈴木さんのお話が、最高に面白かったからです」

 

高橋も、心からの笑顔で返した。

佐藤は、楽しそうに話し込む二人の姿を、少し離れた席から眺めていた。

システムが継承したのは、単なる技術(データ)ではない。

仕事への誇り(プライド)と、次の世代への敬意(リスペクト)。人と人との間に流れる、温かい“何か”だった。

この会社には、優しい連鎖が、確かに生まれている。

佐藤は、そう確信した。